述語の変種 日本語の文法について その39 述語19
述語の変種 日本語の文法について その39 述語19
述語は述べること、述べ立てることである。そのためには述語動詞を核において主語との関係を修辞における表現性に求めることになる。述語はすべてそうであるならそこに文法が成立して捉えることになるのはそのとおりであるが、主辞賓辞の対立だけに捉えない表現もありその特性をもつ言語があるのではないか。文法の論理において述語を変種とするものである。それが日本語にある体言止めである。
名詞止めとも呼ぶこの文章法は辞書で和歌、俳諧などの最後の句を体言で終わらせることとあり、余韻・余情を生じさせる効果がある、デジタル大辞泉、と説明がある。この技法は韻文における修辞のひとつであるが、文末を述語とする日本語の文でいえば述語相当に考えることがある。むしろこの文を修辞技法のひとつにおいて文に応用した述語扱いとすることが普通であり、日本語の文の種類とできる。
体言止めは、文章技法のサイトで扱われて次のように例文を上げる。
私がいちばん好きな花、それは紫陽花。梅雨時に気持ちが滅入っていても、この花を見ると、なぜか元気になれます。 http://kazahanamirai.com/writing-rule5.html Web文章の場合は、体言止めは使わざるを得ません、というような説明で、親近感が出るとしている。
現代語の文章でこの体言止めをどう見るかは上のサイトの見方もある。動詞述語の述べたてに対して名詞述語の ~です の省略と見るのがふつうである。するとこの名詞止めすなわち体言止めの文末述語は述語の変種とみるか、これをそのままに名詞文と見るかであるが、伝統的に、動詞について、~こと これは命令であったりする、また形容詞について ~こと というような感嘆の表現法である。
この表現法はさきの説明にあったように文芸の句切れによるところから派生したものと考えることができる。その技法は俳句によく使われる切れ字、ぞ かな や けり ず ぬ らむ をみて、感動を捉えるか、手掛かりにするか、感動を表す語、けり なり かな かも などの表現を句のまとまりとしての解釈をする。これが体言止めで同じく句切れを示すなら、これは文の終止にあたるかどうかである。
さらにここにもうひとつの捉え方で、名詞に感動を表す語気が伴えばそれは文となりうるかどうかである。語気は音調にもなるし、語勢としてのものでいえば国語の終助詞が加わってさまざまな意味を添えることがある。するとそれは文としての述語にあたるかどうかである。述語句の動詞、形容詞、名詞に、たとえば、~か をつければ、それは不確かなことを表して、それ単独で言い切ることで文が成立する。
となれば、日本語の文の述語には述べ立てる表現法のほかに、語句に感嘆をあらわすこと、語気や語勢を強める表現が加わればそれで述語となるという見方が出てくる。このことは1語文の捉え方に感動を表す文学的な句をも文に認めることになって、この日本語の文構造を明らかにされなければならない。それは詞と辞の構造であるから、古くて新しいことがらであろう。
述語は述べること、述べ立てることである。そのためには述語動詞を核において主語との関係を修辞における表現性に求めることになる。述語はすべてそうであるならそこに文法が成立して捉えることになるのはそのとおりであるが、主辞賓辞の対立だけに捉えない表現もありその特性をもつ言語があるのではないか。文法の論理において述語を変種とするものである。それが日本語にある体言止めである。
名詞止めとも呼ぶこの文章法は辞書で和歌、俳諧などの最後の句を体言で終わらせることとあり、余韻・余情を生じさせる効果がある、デジタル大辞泉、と説明がある。この技法は韻文における修辞のひとつであるが、文末を述語とする日本語の文でいえば述語相当に考えることがある。むしろこの文を修辞技法のひとつにおいて文に応用した述語扱いとすることが普通であり、日本語の文の種類とできる。
体言止めは、文章技法のサイトで扱われて次のように例文を上げる。
私がいちばん好きな花、それは紫陽花。梅雨時に気持ちが滅入っていても、この花を見ると、なぜか元気になれます。 http://kazahanamirai.com/writing-rule5.html Web文章の場合は、体言止めは使わざるを得ません、というような説明で、親近感が出るとしている。
現代語の文章でこの体言止めをどう見るかは上のサイトの見方もある。動詞述語の述べたてに対して名詞述語の ~です の省略と見るのがふつうである。するとこの名詞止めすなわち体言止めの文末述語は述語の変種とみるか、これをそのままに名詞文と見るかであるが、伝統的に、動詞について、~こと これは命令であったりする、また形容詞について ~こと というような感嘆の表現法である。
この表現法はさきの説明にあったように文芸の句切れによるところから派生したものと考えることができる。その技法は俳句によく使われる切れ字、ぞ かな や けり ず ぬ らむ をみて、感動を捉えるか、手掛かりにするか、感動を表す語、けり なり かな かも などの表現を句のまとまりとしての解釈をする。これが体言止めで同じく句切れを示すなら、これは文の終止にあたるかどうかである。
さらにここにもうひとつの捉え方で、名詞に感動を表す語気が伴えばそれは文となりうるかどうかである。語気は音調にもなるし、語勢としてのものでいえば国語の終助詞が加わってさまざまな意味を添えることがある。するとそれは文としての述語にあたるかどうかである。述語句の動詞、形容詞、名詞に、たとえば、~か をつければ、それは不確かなことを表して、それ単独で言い切ることで文が成立する。
となれば、日本語の文の述語には述べ立てる表現法のほかに、語句に感嘆をあらわすこと、語気や語勢を強める表現が加わればそれで述語となるという見方が出てくる。このことは1語文の捉え方に感動を表す文学的な句をも文に認めることになって、この日本語の文構造を明らかにされなければならない。それは詞と辞の構造であるから、古くて新しいことがらであろう。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。