源氏の物語 6 むらさき


  




源氏物語の作者を紫式部とする。その名を紫とするのは、紫にゆかりがあると伝えられていることからである。巻の名に若紫があり、紫の上となるその人の、ゆかりである。物語の呼称を、紫の物語としたという捉え方があり、その時代に作者を紫とする、あの物語を書いている、紫を書いている人、といったことが、宮廷サロンでもてはやされたのだろう。物語が長編に及び、物語の構成を見る、つまり議論をするところから、作者の一人説、作者複数説、そして作者別人説があって、それぞれに語り伝えられたあいだの、物語によるところである。ただ、書写のあいだに、複数の書き手がいて、それは本文書写の過程のことである。その書写者のあいだで書き加えられた本文の違いを検証すると、物語の原文をとどめる作者のいわば自筆本がつたわっていないことがあって、校勘してする本文策定のことがあったのは想像に難くない。書き手とその書き手が指示されて行われた、そこに物語が形成されたとみることができる。




藤式部

>女房名は「藤式部」。「式部」は父為時の官位(式部省の官僚・式部大丞だったこと)に由来するとする説と同母の兄弟惟規の官位によるとする説とがある。

現在一般的に使われている「紫式部」という呼称について、「紫」のような色名を冠した呼称はこの時代他に例が無くこのような名前で呼ばれるようになった理由についてはさまざまに推測されているが、一般的には「紫」の称は『源氏物語』または特にその作中人物「紫の上」に由来すると考えられている。

^ 堀内秀晃「紫式部諸説一覧 九 式部と呼ばれた理由」阿部秋生編『諸説一覧源氏物語』明治書院、1970年8月、pp. 348。

^ 堀内秀晃「紫式部諸説一覧 10 藤式部が紫式部と呼ばれた理由」阿部秋生編『諸説一覧源氏物語』明治書院、1970年8月、pp,. 348-350。



紫の上

>初め紫の君、後に光源氏の妻となって紫の上と呼ばれる。「紫」の名は古今集の雑歌「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞみる」に因み、源氏の「永遠の女性」である藤壺の縁者(紫のゆかり)であることを婉曲に表す。また「上」の呼称が示すように、源氏の正妻格として源氏にも周囲にも扱われるが、正式な結婚披露をした北の方ではない。

源氏物語について語る時、幼少時の紫の上を若紫と呼ぶ事がある。



                                    

源氏の物語5 絵巻






源氏の物語に、源氏とそれを取り巻く登場人物を思い合せると、それは平安貴族の社会である。源氏物語絵巻を鑑賞して、そこに描かれた人々がいる。絵巻物の作者のイメージに去来したのは、この絵に表わされた描画の特徴である、人物、建具に屋台、そして前栽と、そこに住まいする生活がつぶさに、ではないが、物語のストーリーに詞書が添えられて、料紙に合わせた文字のすぐれた芸術性は言葉に尽くしがたい。国内にある源氏の絵巻のすべてを、伝えられたものの全体をながめて、それはどれくらいのものであったか、断簡となってなお、見るものに平安の時代を彷彿とさせる。隆能源氏、たかよしげんじ、と呼ばれている平安時代末期の作品で、国宝に指定されている。名古屋市徳川美術館に絵15面、詞28面がる。蓬生、関屋、絵合は詞のみ、柏木、横笛、竹河、橋姫、早蕨、宿木、東屋の各帖となる。また、東京都世田谷区五島美術館に絵4面、詞9面がる。鈴虫、夕霧、御法の各帖となる。


再掲 企画展チラシ


平成27年11月14日(土)~12月6日(日)

【徳川美術館・蓬左文庫開館80周年記念特別展】

全点一挙公開 国宝 源氏物語絵巻

 国宝「源氏物語絵巻」は、紫式部が著した『源氏物語』を抒情的な画面の中に描き出した、日本を代表する絵巻です。『源氏物語』の絵画化は、その成立当初間もない頃からおこなわれていたとみられているものの伝わっておらず、本絵巻は現存する作例としてはもっとも古く、12世紀前半に白河院(しらかわいん)・鳥羽院(とばいん)を中心とした宮廷サロンで製作されたと考えられています。 


 当初は『源氏物語』全帖を一具として絵画化が試みられていたとみなされていますが、現在、尾張徳川家伝来の蓬生(よもぎう)、関屋(せきや)、絵合(えあわせ)、柏木(かしわぎ)一~三、横笛(よこぶえ)、竹河(たけかわ)一・二、橋姫(はしひめ)、早蕨(さわらび)、宿木(やどりぎ)一~三、東屋(あずまや)一・二の9帖15段分の詞書と絵、および絵が失われ詞書のみが残る絵合の1段が名古屋・徳川美術館に、阿波・蜂須賀家に伝来した鈴虫(すずむし)一・二、夕霧(ゆうぎり)、御法(みのり)の3帖4段分の詞書と絵が東京・五島美術館に所蔵されています。これらを合わせた13帖分と、諸家に分蔵される若紫(わかむらさき)・末摘花(すえつむはな)・松風(まつかぜ)・薄雲(うすぐも)・少女(おとめ)・蛍(ほたる)・常夏(とこなつ)・柏木(かしわぎ)の詞書の数行の断簡、および後世の補筆が著しい若紫の絵の断簡(東京国立博物館蔵)を含めた20帖分が、900年近い星霜を経て現在に伝えられています。


 絵は、墨描きの下図を描き、構図に微妙な修正を加えながら彩色を施し、さらに顔の輪郭や目鼻、あるいは衣や調度の文様を描き起こす「作り絵」で、一線のように引かれた目、「く」の字状の鼻、ぽつんと点じられた小さな口で面貌を表現する「引目鉤鼻(ひきめかぎはな)」や、屋根を取り去って屋内の情景が覗き込めるように描く「吹抜屋台(ふきぬきやたい)」などの描法により、『源氏物語』の世界を余すところなく伝えてくれます。詞書・絵ともに現存する19段のうち11段は、詞書中に和歌を含み、さらにこのうち六段は登場人物間にかわされた贈答歌を中心に場面が選ばれているので、物語の行間に込められた抒情性や登場人物の心の綾までもが巧みに描き出されています。


 詞書は、11世紀以来の伝統を引き継ぐ美しい連綿体(れんめんたい)で書きつづられた流麗な書風や、自由奔放で肥痩にとみ、側筆の重厚で力強い藤原忠通(ただみち)(1097~1164)にはじまる法性寺流(ほっしょうじりゅう)の書風など、当時の新旧の書の様式が混在しています。また詞書に使用された料紙には美麗な装飾が凝らされており、絵・書と一体となって王朝人たちの美意識を伝えてくれます。


http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h27/07/index.html


                            

源氏の物語4 賜姓のこと





源氏物語が源氏であるのは物語中に語る御子の出自である。源氏性は、姓の代表的なものの一つである。平氏、藤原氏、橘氏とともに、源平藤橘、四姓と総称される。そのうち、もっとも新しいのが源氏である。嵯峨天皇が皇子に源姓を与えたことに始まる。源氏姓は、平氏ともに臣籍降下で名乗る氏の1つであり、その系譜に、嵯峨天皇から嵯峨源氏、清和天皇から清和源氏と、二十一流があるとされている。源氏賜姓の物語である。当時の歴史事件に安和の変があり、源高明が源氏物語の主人公になぞらえられる説もある。


その執筆動機の解説で、


>藤原氏により左遷された源高明の鎮魂のために藤原氏一族である紫式部に書かせたという『河海抄』に記されている説、  


というのがある。


また、同じく、ウイキペディアの解説に、 


>『源氏物語』は、なぜ藤原氏全盛の時代に、かつて藤原一族が安和の変で失脚させた源氏を主人公にし、源氏が恋愛に常に勝ち、源氏の帝位継承をテーマとして描いたのか。初めてこの問いかけを行った藤岡作太郎は、「源氏物語の本旨は、夫人の評論にある」とした論の中で、政治向きに無知・無関心な女性だからこそこのような反藤原氏的な作品を書くことができたし、周囲からもそのことを問題にはされなかったのだとしたが、逆に池田亀鑑は、藤原氏の全盛時代という現実世界の中で生きながらも高邁な精神を持ち続けた作者紫式部が理想を追い求めた世界観の表れがこの『源氏物語』という作品であるとしている[90]

  ^90 池田亀鑑「構想と主題」『源氏物語入門』(社会思想社現代教養文庫、1957年(昭和32年))pp. 169-170 


 と見える。


物語中の人物呼称に、作者の用意した物語り人物であるので、その姓名は明らかにすること少なく、場面と文脈にゆだねられ、これは最小限表現にどめた物語り登場人物の特徴を捉えることになる。



>『源氏物語』の登場人物の中で本名が明らかなのは光源氏の家来である藤原惟光と源良清くらいであり、光源氏をはじめとして大部分の登場人物は「呼び名」しか明らかではない。また、『源氏物語』の登場人物の表記には、もともと作中に出てくるものと、直接作中には出てこず、『源氏物語』が受容されていく中で生まれてきた呼び名のふた通りが存在する。作中での人物表記は当時の実際の社会の習慣に沿ったものであるとみられ、人物をその官職や居住地などのゆかりのある場所の名前で呼んだり、「一の宮」や「三の女宮」あるいは「大君」や「小」君といった一般的な尊称や敬称で呼んだりしていることが多いため、状況から誰のことを指しているのか判断しなければならない場合も多いだけでなく、同じひとりの人物が巻によって、場合によっては一つの巻の中でも様々な異なる呼び方をされることがあり、逆に、同じ表現で表される人物が出てくる場所によって別の人物を指していることも数多くあることには注意を必要とする。






デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

源高明 みなもとの-たかあきら

914-983* 平安時代中期の公卿(くぎょう)。

延喜(えんぎ)14年生まれ。醍醐(だいご)天皇の皇子。母は源周子。醍醐源氏の祖。臣籍にはいり,天慶(てんぎょう)2年(939)参議。のち正二位,左大臣にすすむが,安和(あんな)2年(969)藤原氏の策謀により失脚(安和の変)。悲劇の主人公として光源氏のモデルとする説もある。西宮左大臣とよばれる。天元5年12月16日死去。69歳。著作に「西宮記(せいきゅうき)」。


朝日日本歴史人物事典の解説

源高明

没年:天元5.12.16(983.1.2)

生年:延喜14(914)

平安中期の公卿。西宮左大臣と称す。醍醐天皇皇子で母は更衣の源周子。延喜20(920)年源姓を賜り,臣籍に降下。天慶2(939)年,26歳で参議となる。天暦7(953)年大納言に進み,在任中,義弟村上天皇の女御であった藤原安子(妻の姉妹)の立后で中宮大夫となったほか検非違使別当,左大将などを兼務した。右大臣を経て康保4(967)年左大臣となる。2年後,女婿の為平親王(村上天皇第4皇子)が兄冷泉天皇の東宮になることができず,弟の守平親王(のち円融天皇)がなった失望から謀反を企てたとの理由で大宰府(太宰府市)の名目上の副長官に左遷された(安和の変)。これについては,賜姓源氏に脅威を感じた藤原氏による他氏排斥事件とする見方が有力。この左遷をめぐり占いで凶相が出たとか悪霊に出あった結果といった話が説話類にみえる。4年後に許されて帰京し封300戸を賜った。平安京右京にあった豪壮な西宮殿は高明の左遷直後に焼失した。慶滋保胤は,『池亭記』でこの右京衰退の様子を記している。学問を好み朝儀に明るく,平安初期の代表的な有職故実書である『西宮記』を著した。歌集『西宮左大臣御集』を残し,勅撰集に20首近い歌がとられている。琵琶の名手であり,秘曲を伝え,楽所別当となったこともある。『源氏物語』の主人公光源氏のモデルのひとりと考えられている。娘の明子は藤原道長の妻。後世,託宣により従一位を追贈された。<参考文献>青木和夫「源高明」(川崎庸之編『王朝の落日』),山中裕『平安時代の古記録と貴族文化』



日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

安和の変

あんなのへん

969年(安和2)藤原氏が起こした他氏排斥の疑獄事件。右大臣藤原師尹(もろただ)が、左大臣源高明(たかあきら)(醍醐(だいご)天皇の皇子。賜姓源氏)を左遷し、その結果、自ら左大臣となる。事件の発端は同年3月、左馬助(さまのすけ)源満仲(みつなか)、前武蔵介(むさしのすけ)藤原善時(よしとき)らが、中務少輔(なかつかさのしょう)橘繁延(たちばなのしげのぶ)、源連(つらね)、前相模介(さがみのすけ)藤原千晴(ちはる)らを密告したことに始まる。朝廷は取調べの結果、源高明に関係深い事件とし高明を大宰権帥(だざいのごんのそつ)に貶(お)とし、繁延を土佐(高知県)、千晴を隠岐(おき)に配流した。これより先、源高明は藤原師輔(もろすけ)(師尹の兄)の娘を妻としており、妻の姉は村上天皇の中宮(ちゅうぐう)安子である。村上と安子の間には、憲平(のりひら)(冷泉(れいぜい)天皇)、為平(ためひら)、守平(もりひら)の3親王があり、村上天皇と安子は為平親王を憲平親王の即位後皇太子にしようと考えていた。しかるに、村上天皇退位のとき、藤原氏の実頼(さねより)、伊尹(これただ)、兼家(かねいえ)らは、為平親王が皇太子からいずれ即位して源氏の繁栄することを恐れ、為平親王が源高明の娘婿であることを理由にこれを排除、守平親王を皇太子とした。また、師輔の娘が高明の妻であることから、師輔の兄実頼、弟師尹は師輔に対しての反発も強く、師輔、安子の死により高明は支柱を失ったところ、高明が為平親王を擁立し東国に軍兵を起こし即位させようとしているなどのうわさがたち、源満仲は、初めは仲間であったのが心変わりして密告したという。朝廷内の騒動は、承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱のようであったと『日本紀略』に伝え、師尹が主謀者と『歴代編年集成』にある。高明は出家し、邸(やしき)は焼失した。源満仲の武士としての進出、藤原氏の他氏排斥最後の事件であると同時に、藤原氏同士、兄弟の争いの第一歩がこの事件である。[山中 裕]