ニッポン語はいつから
日本語はどのようにして日本語になったか。これは歴史のあることで、現代日本語だけを眺めてわかるところ、表記のちがいではない、漢字平仮名カタカナローマ字という交ぜ書きもさることながら、それに応じた語彙のことがある。
それは語の一つ一つに現われる現象として日本語となるプロセスがあってそこに現われた意味はまさに日本語である。
語彙の類が和語として区別されるのはそれが漢語洋語の和語化にほかならない。
もとのものいい、日本語になるというのはどういうことか。
日本語をそう呼ぶようになったときとか、もとよりニッポン語だろうになぜまたそのような問いになるのか、日本国となったそのときに日本語があったということではないか。
このように考えればそれはまたそのことについて、この問いに対することがらを追求するのは難しいことだとすぐに気付く。
日本国となったときに、少なくともその表記が現れたときには、それを、やまとのくにと読み慣わしていたからで、だれがいつどこでニッポン国と言い出したのか、それがさだまらない。
あるとき国語の学会で会場から発表者に質問があった。
天皇という語が出てくる資料で慎重に学界の泰斗は答えていた。
質問はいつから天皇はテンノーであるのか、これには会場はどよめいたが、そのときの応答が今でも忘れられない。
そう、それがわからないのです、いつから天皇をテンノーというのか、その読みをつけた資料がないのです、漢字だけで伝えらえた読みについては、この発音の資料がいつからかとはといえない、そのようなことを汗を拭きながら話していた。
質問はそれ以上に及ばなかったが、何ともみごとであった。
それは連声読みとして天皇はテンノーであると教えられてそうだと思い込んでいる庶民にとってみれば、その読みがいつからなどとは疑いもしない、初めからだとなるが、テンオウ天王、テンコウ天皇、というようにわかっているつもりでいても、わからないものはわからないと文献実証の国語研究は言うしかないのであった。
日本国の名称は対外的なことがらがあって日本の歴史の教えるところ、倭国また和国であった。
大和であったか、となると、外交文書の記録で日本国そのものはずっと時代を下げることになる。
史書における扱いで日本の呼称を新旧の唐書などの記載から日本国の文字を見出したとして、その漢字をどう読んでいたかを確かにするものはないのであって、ポルトガル語で音表記に3種類あるのを17世紀初頭のこととして、それでも日本人自らがそう呼ぶか、その3種類をどう選んでいたかの問題として残るわけで、それはいずれもそう記録されていた通りだろうとして、ヤマトは日本なのである。
謡曲狂言の詞章にあるのはその台本の性格からして演者の即興にあり時間の変遷に時代を映すので、果たして台詞であってもどう発音されていたかを証とするには難しい側面がある。
それよりも日本の国が主権の独立を唱えた時に日本国であったと誰が決めていたのかどうか、それをも定かにしえないように思えるので、このことはゆるやかに対外交渉がはじまって近隣アジアの朝貢ではない欧米との通商における国名の呼称に求められるが、それとてニッポンとは呼ばれていなかっただろうけれど、表記上のことであればたしかに大日本であったのだだろうか。
日本語をとらえるのもその状況に鑑みれば日本国であって大日本国語でないところの日本語となるのは国語国字調査会が委員会を重ね国語審議会となってもなお国語としか言いようがなかった時期を過ぎてやっといま日本語なのである、というのは、それでもやっと文化庁国語課の日本語教育に過ぎないし、いつまでたってもおこなわれるのは国語の意識調査である。わたしたちは日本語をニッポン語とすることができないままに置かれているのであろう。
さてそうはいってもJapanとありJappaneseとあれば、古地図での表記に見えるのは、やまと、ではないところの、日本の読みをとらえてのことであろうか。
欧州発行の古地図上での表記 フリー百科事典ウイキペディアより
「IAPAM」1560年頃
「IAPAN」1567年頃
「IAPAM」1568年頃
「JAPAN」発行年不明
「IAPONIAE」1595年
「IAPONIA」1595年
「IAPONIÆ」1595年
「IAPONIA」1598年
「IAPONIA」1598年
「IAPAO」1628年
「Iapan」1632年
「IAPONIA」1655年
「IAPON」発行年不明
「Iapan」1657年
「IAPONIA」1660年頃
「NIPHON」1694年頃
「JAPAM」1628年
「YAPAN」1628年
「IAPON」17世紀
「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初
「IMPERIUM IAPONICUM」1710年頃
「IAPONIA」18世紀初
「IAPON」1720-30年
「IMPERIVM JAPONICVM」1727年
「HET KONINKRYK JAPAN」1730年頃
「JAPANIÆ REGNVM」1739年
とすればこのことにおいてはニッポン語がこの地域に行われていたのである。
それは語の一つ一つに現われる現象として日本語となるプロセスがあってそこに現われた意味はまさに日本語である。
語彙の類が和語として区別されるのはそれが漢語洋語の和語化にほかならない。
もとのものいい、日本語になるというのはどういうことか。
日本語をそう呼ぶようになったときとか、もとよりニッポン語だろうになぜまたそのような問いになるのか、日本国となったそのときに日本語があったということではないか。
このように考えればそれはまたそのことについて、この問いに対することがらを追求するのは難しいことだとすぐに気付く。
日本国となったときに、少なくともその表記が現れたときには、それを、やまとのくにと読み慣わしていたからで、だれがいつどこでニッポン国と言い出したのか、それがさだまらない。
あるとき国語の学会で会場から発表者に質問があった。
天皇という語が出てくる資料で慎重に学界の泰斗は答えていた。
質問はいつから天皇はテンノーであるのか、これには会場はどよめいたが、そのときの応答が今でも忘れられない。
そう、それがわからないのです、いつから天皇をテンノーというのか、その読みをつけた資料がないのです、漢字だけで伝えらえた読みについては、この発音の資料がいつからかとはといえない、そのようなことを汗を拭きながら話していた。
質問はそれ以上に及ばなかったが、何ともみごとであった。
それは連声読みとして天皇はテンノーであると教えられてそうだと思い込んでいる庶民にとってみれば、その読みがいつからなどとは疑いもしない、初めからだとなるが、テンオウ天王、テンコウ天皇、というようにわかっているつもりでいても、わからないものはわからないと文献実証の国語研究は言うしかないのであった。
日本国の名称は対外的なことがらがあって日本の歴史の教えるところ、倭国また和国であった。
大和であったか、となると、外交文書の記録で日本国そのものはずっと時代を下げることになる。
史書における扱いで日本の呼称を新旧の唐書などの記載から日本国の文字を見出したとして、その漢字をどう読んでいたかを確かにするものはないのであって、ポルトガル語で音表記に3種類あるのを17世紀初頭のこととして、それでも日本人自らがそう呼ぶか、その3種類をどう選んでいたかの問題として残るわけで、それはいずれもそう記録されていた通りだろうとして、ヤマトは日本なのである。
謡曲狂言の詞章にあるのはその台本の性格からして演者の即興にあり時間の変遷に時代を映すので、果たして台詞であってもどう発音されていたかを証とするには難しい側面がある。
それよりも日本の国が主権の独立を唱えた時に日本国であったと誰が決めていたのかどうか、それをも定かにしえないように思えるので、このことはゆるやかに対外交渉がはじまって近隣アジアの朝貢ではない欧米との通商における国名の呼称に求められるが、それとてニッポンとは呼ばれていなかっただろうけれど、表記上のことであればたしかに大日本であったのだだろうか。
日本語をとらえるのもその状況に鑑みれば日本国であって大日本国語でないところの日本語となるのは国語国字調査会が委員会を重ね国語審議会となってもなお国語としか言いようがなかった時期を過ぎてやっといま日本語なのである、というのは、それでもやっと文化庁国語課の日本語教育に過ぎないし、いつまでたってもおこなわれるのは国語の意識調査である。わたしたちは日本語をニッポン語とすることができないままに置かれているのであろう。
さてそうはいってもJapanとありJappaneseとあれば、古地図での表記に見えるのは、やまと、ではないところの、日本の読みをとらえてのことであろうか。
欧州発行の古地図上での表記 フリー百科事典ウイキペディアより
「IAPAM」1560年頃
「IAPAN」1567年頃
「IAPAM」1568年頃
「JAPAN」発行年不明
「IAPONIAE」1595年
「IAPONIA」1595年
「IAPONIÆ」1595年
「IAPONIA」1598年
「IAPONIA」1598年
「IAPAO」1628年
「Iapan」1632年
「IAPONIA」1655年
「IAPON」発行年不明
「Iapan」1657年
「IAPONIA」1660年頃
「NIPHON」1694年頃
「JAPAM」1628年
「YAPAN」1628年
「IAPON」17世紀
「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初
「IMPERIUM IAPONICUM」1710年頃
「IAPONIA」18世紀初
「IAPON」1720-30年
「IMPERIVM JAPONICVM」1727年
「HET KONINKRYK JAPAN」1730年頃
「JAPANIÆ REGNVM」1739年
とすればこのことにおいてはニッポン語がこの地域に行われていたのである。
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