口語、文語

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話し言葉と書き言葉のことを口語と文語という。

言葉は話すことからだろう。
この話すについても日本語では言う、語る、話すと言葉があるから、その意味はどう違うだろうかとなるが、それはまずさておき、口語と文語とを並べて口語文法、文語文法となると、これまた奇妙なことに、文語があって口語があることになる。
また文語体と口語体となると
これはかつて区別があってそしていまはともになくなってしまった。文体も日本語に特徴的であるとされるのでこれについては機会を改めよう。

戻って、話し言葉の記録は文字が漢字とともにある日本語では方言的なものを訛言として伝えるほかは、ほとんどにおいて書き言葉の記録である、と断言してよいかも迷うところで、それぐらいに話しことばはわからない。
わからないのではなくて記録するということがなかったとするなら、これは記録されたものの中に話し言葉を類推することになる。言文はわかれて伝えられたとする立場にあるなら、それが見える状況でさかのぼることができるだろう。

口語と文語で気をつけるべきは書き言葉が記録されて文語を形成してきたという捉え方である。
そして口語はその形成を見て書き言葉が崩れて口語となっているという見方だ。

学校教育で文語文法と口語文法にわけて行われて記憶するところでも1950年代半ばまではその教科書が使われていた。1960年代になると後半あたりでは古典語文法としてのとらえかたとなって、対するは現代語文法にかわったのが国語科目での扱いだ。

文語文法と言われた1930年代か調べてみなければわからないが、そのころ盛んに口語法なるものが現れて文語を基盤に持つ話言葉に規範性を与えようとしている。このことに触れる言文二途を一致することが叫ばれた時期へとつながる。口語文法と言ってもそれは文語文法だといわれてしまうようなことである。

口語は使われなくなってしまったのは話し言葉を現代語と意識して文法分析を変えようとしたからである。長い時間を要したようでもあるし、1980年代ぐらいからだと大雑把に言ってしまってもよいか。文語はやはり言わなくなってしまったのはこの語に表わされた内容が時代性を伴うようになってしまったからだろう。口語は口頭語に、文語は文章にその名を留める。