進修生受け入れ

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はじまり、はじまり 進修生受け入れ

北京出張になる84年まで、そしてそれは79年から引き続き89年までに新業務となる。その間に勤務校となった中国人日本語教師の研修受け入れをすることになった。
何しろ、友好条約の果実となるべき第1期生であるから、なにごとも、そう、大変であった。その任に当たるべく大阪から名古屋を越して豊橋に至る道となったのは、大辞典編纂の事業から留学生を日本語教育で受け入れる事業という、大学命運のプロジェクトの計画実行に当たったからである。先任者の国語国文の教師に日本語教育は避けるべきことであったらしく、協力者には中国語の教師であった。大陸の大学との広い交流を目指したので、わたしにはてんやわんやでもあった。
79年の暮れに東京成田の空港に着いたが4人の中国人教師は書類不備で入国できないとの連絡が入って新幹線に乗ってあと2時間と少しのところまできてトラブっていた。歓迎の式典が用意されてその場に現れるのは今か今かと待ち焦がれたのを思い出す。入国は政治解決ですぐにも許されてホテルの晩餐会に間にあった。あいさつで感極まって不覚にわたしは絶句したのだった。足掛け2年の準備があって眼前の事実となった。北京語言、上海外語、大連外語、東北師範から4人の日本語教師を迎えた。このあたりの事情は書いたり、書かなかったりで、知る人も、語る人も、もういなくなってきた。