ナシ助詞  日本語の文法について その50

ymksk
ナシ助詞   日本語の文法について  その50

無助詞という。あまり好きな用語ではない。無資格と言ってなにがわかるだろうか。資格があるから有資格となると無資格はその対比で何もないので本来その表現が成り立たない。するとそれはまた有についての無であることになってその有資格者とはなんであるかが議論されていなければならない。話を戻して無助詞も有助詞というのがあってのことであろうから助詞ということだけにして無助詞を使えない。

松下文法が合説、分説、単説と言ってすでに指摘があるような解説が多い。これを、も  は  そして、何もない  とみる人がないのは、平説に、が  をみているにかかわらず、単説にあるべきものとしての、が  を当ててみようとするからである。題目に下位分類する松下学説は単説と平説を区別しているのであるから、それを聞きわけ見分けようとしない議論に無助詞という言い方が現れる。

無助詞の議論にはまた多く助詞の省略という現象を指すこともあって主格だけではない用法を示す。この助詞の省略という説明も助詞の用法があってそれを言わない現象ということになる。これは日本語の古文を知れば助詞の省略ではない、それを現代語で捉えようとすると助詞を補った語の関係を捉えようとするために、助詞を省略した表現と受け止めることになるようである。

おそらく無助詞の現象に、は  が  のいずれも言えないものがあるとしたのは、松下学説の単説に助詞の省略という用法をあてはめてみようとしたためであろうから、無助詞の議論は言葉の用法のさまざまな現象を捉えるかのような物言いとなる。日本語の原初的な姿に戻って想像をしてみるならば語があるときにすでに単語を並べるだけであったとするのは自然なことかとするとそれを捉えることになる。

つまり祖先は物事を見て声をだしそれを言葉として使い始めたというような想像でそのときには無助詞で表現をしたと仮定する。話し言葉はもとより言うところの無助詞の言語であったとして書きことばを記録するのに助詞を辞として意識してそこで言葉の関係を見て理解をしようとしたのであろうから有助詞にしたのは語と語とを関係付ける作業であった。助詞というのはそうしてあったに相違ない。

そのような言葉の現象が昔も今も変わらないとするのはありうることで話し言葉ではそも助詞がない言葉遣いでものとの関係を捉えるように実現している。そこにおいて助詞を使わないのは有助詞の表現にするとどうなるかを示そうとしているのではないから題目の中で単語を示した用法とまずは見てよい。それは記録され文字化するための発話であるとしたら助詞がつかずしたがって語の関係性はない。

無助詞は日本語をどう見るか、語をどうとらえるか、話しことばでの使い方に素朴な用法として現れる言語の現象を示していることになりそうなので、それは語を話し出すときの単語を捉えてのことになってそれが語とどういうふうに関係性を持つのか、新たな分析を求められることになって、それは記録された言葉の関係性にはない新たな用法であるとすると助詞はないわけであるから当てはまる関係がないことになって無助詞の原初性は議論から別の議論へと展開をすることになる。