初心、ふたたび

ymksk
初心の語は、それでよいとして、忘れてはいけない、というところで、どうなるか。うぶであること、なれていないこと、そして最初の思い立つ心と理解しても、忘れてはならないのは、ときどきに、そして、能の作者が言うのは、老後の初心である。はじめたときの新鮮で謙虚な気持ち、志を忘れてはいけないとか、それでよいとして、万能一徳の一句とは、いかにもそれらしく、口伝すべき初心わするべからずにあるのは、常に芸の未熟さを思えということになる。老後の初心は、老いてなお未熟な自分を省みよということなのであるから、ちょうど1年前にこれを書いて、それからの未熟さはいかばかりであったか。いわば、初心の学である。仏教の初心はまた解釈があるようである。


ジョブスも絶賛した 「初心」という言葉 現代と昔では違う意味で使われてい ...
https://news.aol.jp/2014/01/03/syoshin/
2014/01/03 - 最初に思い立ったときの純真な気持ちを表す「初心」。かのスティーブ・ジョブズ氏も「仏教には初心という言葉がある。初心を持つのはすばらしいことだ」という言葉を残しています。


初心不可忘
初心の初を初々しさと読んだ。初々しさは芸における粗削りである。その動きは不器用そのまま、見るからに、初心であるが、是非にも見る芸のはじまりから、これをおいてのほかはない動き......




初心の初を初々しさと読んだ。
初々しさは芸における粗削りである。

その動きは不器用そのまま、見るからに、初心であるが、是非にも見る芸のはじまりから、これをおいてのほかはない動きである。
その初心とは果敢でさえある。

その果断心がよい。能の舞を見ていて、いつも思っていた。舞がうまいのはねむっているから、ねむらせることのない動きが感じられれば素晴らしい。

いわば、鬼気せまる、妖気あふれる、初心のものである。

さてそれが、老後の初心にもとめられるのは老後の風体にあるというのだから、年寄ること、それなりに年寄りの動きを持つということである。
わがあこがれの、つえをついての自然なふるまいである動きとは、まさに老後である。

それも50歳余りであれば、これは平均寿命で考えるか、どうするか。
気づけば、つまずくし、階段に足が上がらない。

老後の初心である。これを知れば、それまでの動きなどはどこへやら、秘めたる思いに動きをすることになるから、老後の初心はおなじく、壊れんばかりの迫力満点になる、と、思うのだけれども、初心のままに動けばよいのである。

命の燃え続ける限りは、老後の初心を知るとは、果てのないことである。


初心不可忘   花鏡  世阿弥

是非初心不可忘。
時々初心不可忘。
老後初心不可忘。

是非の初心忘るべからず、時々の初心忘るべからず
老後の初心忘るべからず、命に終わりあり、
能には果てあるべからず。


時々の初心を忘るべからずとは、これは、初心より年盛りの頃、老後に至るまで、その時分時分の芸曲の、似合ひたる風体を嗜みしは、時々の初心なり。されば、その時々の風儀を為捨て為捨て忘るれば、今の当体の風儀をならでは見に持たず。過ぎし方の一体一体を、今、当芸に、皆一能曲に持てば、十体にわたりで能数尽きず。その時々にありし風体は、時々の初心なり。それを当芸に一度に持つは、時々の初心を忘れぬにてはなしや。さてこそ、わたりたる為手にてはあるべけれ。しかれば時々の初心を忘るべからず。

老後の初心を忘るべからずとは、命には終はりあり、能には果てあるべからず。その時分時分の一体一体を習ひわたりて、また老後の風体に似合ふことを習ふは、老後の初心なり。老後、初心なれば、前能を後心とす。五十有余よりは、「せぬならでは手立てなし」といへり。せぬならでは手立てなきほどの大事を老後にせんこと、初心にてはなしや。

さるほどに、一期初心を忘れずして過ぐれば、上がる位を入舞にして、つひに能下がらず。しかれば、能の奥を見せずして、生涯を暮らすを、当流の奥義、子孫庭訓の秘伝とす。ことの心底を伝ふるを、初心重代相伝の芸案とす。初心を忘るれば、初心、子孫に伝はるべからず。初心を忘れずして、初心を重代すべし。