日本語教育の文法2 文法論
文法は言語現象の現れ方を規則で説明しようとするものである。意味のまとまりである、それは伝えようとすること、モノコトについて、文という単位を設定し、さらに、そこに語という単位を最小の単位とすることで、その分析を行う。文と何か、語とは何か、それを定義して文の成立をとらえ、語と語との関係構成を明らかにして、言語を理解する。日本語文法は、文法という学術用語を、grammarについていう、翻訳語として作った。文法は日本語に即していえば、日本語文章法というべきであるが、文法論の考え方に沿って日本語教育の文法を述べようとする。文法論は形態と統語、いま、morphologyモルフォロジー、syntaxシンタックスと言っている、文法論を形態文法、シンタクスにとらえて説明する。
文法は言語現象の現れ方を規則で説明するとして、その考え方をまずは、踏まえておく。つまり、文法は考え方、捉え方なのである。それは個人が脳内に持ち、それを運用して言葉を話し、書き、読み、聞く、言語の4技能を実践している。その文法は教科書に説明があり、その法則であると、わたしたちは理解しているが、文法が教科書の説明また文法書の解説にあるのではない。それは文法学者あるいは研究者によって整理された理論、学説であるから、その立場が異なれば、文法説明が異なることを知るべきである。つまり文法のことは書物にある、書かれているのではなくて、わたしたちの言葉を使う能力として備わっているものである、その共通するところを見れば、日本語の国語文法は文節による理論であり、英語の文法は構造主義の文法理論で説明されることがわかる。
そのそれぞれをよりどころとするのは、学校文法と呼ばれて整理されて、わかりやすく述べているものである。それが、教育用文法として見ることができるものである。国語の文法を学校文法、つまり規範文法とするので、それをまず整理した考え方として習得してきている。ちなみに英語文法は、教育用に考えれば、それは外国語としての英語文法である。ここで、外国語としての文法を日本語に当てはめれば、日本語教育の文法は、外国語としての文法、言語教育用の文法であるから、その考え方をまず知っておかねばならない。ここに規範文法、学校文法、そして教育用の文法としてとらえると、そこには文法の立場によって学説、理論があるので、文法という用語で説明される現代語文法、古典語文法などの名称で呼ぶ文法それぞれが、どんなんものであるかを連想するとわかりよいので、学説、理論として知るべきである。用語をあげると、一般文法、歴史文法、比較文法、個別言語の文法などがとらえられてきた。現代には、記述文法、対照文法、普遍文法などの学説がある。
>日本語の文法について
日本語の文法について文法とは文の法則または文章の法則とする。文法という用語は近代以降のことで翻訳語として成立した。それまでに日本語を文法としてとらえることがあったか。古代漢語の影響で語法を捉えることはあったであろうし、日本語文典というポルトガル語による解説書が作られ日本語を文法としてとらえることがあった。
文法は考え方である。その考え方を論理として規則にする。文法がどうして必要であるかとその規則を捉えてみると、言語は宇宙と神羅万象のさまざまを表現する言葉であるからその中心となるものを捉えて論理化しようとしてきたようだと思い当たる。それは地域と言葉によって異なる。考え方をそのようにすると、それぞれであるということになる。
人々に文法が必要である実際上の問題は言葉がわからなくなったということがあるだろう。それは古典学における読解に求められた規則である。それはやがて古典語を書き表すために作られた技法のひとつになる。文章の法則というのはそのために用意された。それがまた考え方によって文の法則になる。弁論術や修辞技巧もそれにともなってのことだろう。
時の経過とともに言葉への関心は古典への解釈から周辺地域の言語や遠方の言語などに向き始め自らの言葉を時間の経過のうちにたどることをはじめる。境界を接して言葉を捉えると自分のことだけが中心となっていた。それまでは蛮族とか夷狄ととらえられたりした領地拡大の対象が、海を隔てた地域への冒険となりその地と言葉が捕えられるようになる。
日本語はそのような世界という動きの中にあって漢字をとりいれ、やがては外国語と捉えるようになって、わたしたちにも文法の意識が目覚める。言葉に法則を作るのは使い手たちのとらえ方によることであってそれをわざわざ論理化することはなかったかもしれないが、口伝、秘伝としての作法は日本語にもあったことは誰もが知るところである。
文法は古語の文章を規範として分析される。日本語は時間的な経緯としてことばの変化を地域に限られた形でみると、大きく経験することはなかったとみられるので、実質に1300年以上の言語史を持つ日本語として見ることができる。すると、ほかの地域の言語に当てはまらない通時的なとらえ方になる。言語変化は2言語を対照する経過として見る。
このことは、現代語の文法分析をする場合にも当てはまって、時間的な経過は近代になって、古語の文法規範に対して改めて当代語に当てはまる規範が求められるようになる。それは時を経て模範が米国口語になるべく日本語文法のとらえかたは変わっていくのである。この150年の間の出来事で、日本語が外国語を学び続けるゆえんである。
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