コラムの文章

ymksk
新聞記事のコラムである。
毎日の掲載にかつては、ひとりで書き、それを続けていると思っていたころがあった。

50年すこし前のことである。
名文であったから、読み取るのは難しかった。

それが、いまでもかわらない。
ただ、ある時に気が付いた。

毎日でありながら、文体が異なることであった。

分かりやすい人、そうでない人、というふうになるが、毎日読むコラムであるし、書く方も、文章のよい時もあれば、悪い時もある、という良いうなことだろうと思っていた。

どれも名文であるとされるから、それを教材にしていたり、文章見本のような扱いもあったりで、こんなに難しい文章は手本にならないと思っていた。

それも今は変わらない思いだ。
字数の制限に、時間の制約、題材の限界と、文章を鍛えるには事欠かない条件が、読むものをして窮屈さを感じさせるのである。

そこに日本語のサンプルがあるなら、毎日読むことだ。
何がわかるようになるか。

デジタルの時代である。
扱いやすくなった。




余録:
月を見たことがある。夏の夜、金色の光輝を放つ円盤は…
毎日新聞 
2015年06月07日 

 月を見たことがある。夏の夜、金色の光輝を放つ円盤は、やけに明るく感じられた。宇宙はすぐそばに、手の届くところにある。そんな感覚が身内にわき上がった

 盲ろうという障害を持ち、初めて東京大学教授になった福島智(ふくしまさとし)さんは近著「ぼくの命は言葉とともにある」(致知出版社)で語る。光と音を失った高校生のころ、自分が地球上から引きはがされ、光のない真空の世界に投げ込まれたように感じたという

 見えない、聞こえない人となって福島さんは学友のもとに戻ってきた。過酷な運命に直面している福島さんの手のひらに、友人の一人が指先で書いた。「しさくは、きみのためにある」。思索。その時から言葉は新しい意味を帯びて福島さんの前に立ち現れた

 実際には、母の発明した指点字によって福島さんは社会とのつながりを再び手に入れた。ニューヨークのイタリア料理店で4時間以上、福島さんと語り合ったことがある。酔いながら指点字の通訳者を介して縦横無尽に話す。少し甲高い声に神々しさすら感じたものだ

 言葉には思いもよらぬ力が潜んでいる。ささいな言葉の行き違いから、人間関係がすさむことさえある。中高生に人気の無料通信アプリLINEでのいじめは深刻だ。いじめる側は軽い気持ちでも、深く傷つき、自殺に追い込まれた中学生もいる

 盲ろうとは宇宙に1人で漂っているようなものだと福島さんは言う。真空に浮かんだ自分をつなぎとめているのが言葉、他者とのコミュニケーションだ。「私の魂に命を吹き込んでくれたのも言葉だった」。福島さんの言葉を子どもたちに届けたい。



天声人語
2015年6月7日(日)付

 一輪挿(ざ)しにして眺めて、ドクダミを見直した。濁った感じの名前に似ず、白い十字の花と見える苞(ほう)はひっそりと清楚(せいそ)だ。スペード形をした葉の濃緑が、白をきりりと引き立てる。はびこるだの、けちくさいだの、雑草呼ばわりが申し訳なくなる

 白い星を散らしたように木の下闇に咲いている。そのドクダミをはじめ、梅雨どきの花は白が多いと何年か前に書いた。山法師(やまぼうし)に夏椿(なつつばき)、泰山木(たいさんぼく)、梔子(くちなし)など多彩であると。すると「南天(なんてん)もお忘れなく」とお便りをいただいた

 南天といえば赤い実だが、花はいまごろ白く咲く。といっても、枝にゴマをまぶしたように、一つひとつは小さくて地味だ。花の盛りにも、周囲の樹木などにまぎれて、それと気づかれぬことが多い

 沙羅の花と呼ばれる白い夏椿も、雨期の風情によく似合う。〈また立ちかへる水無月の/歎(なげ)きを誰にかたるべき/沙羅のみづ枝(え)に花さけば/かなしき人の目ぞ見ゆる〉。みづ枝とは、みずみずしい枝のこと。芥川龍之介が響きも美しくうたった四行の詩は、白以外の花では成り立つまい

 きのうは二十四節気の芒種(ぼうしゅ)だった。天気にもよりけりだが、この季節の黄昏(たそがれ)どきはずいぶん長い。湿潤とともに植物は生命力をみなぎらせて、次の節気はもう夏至。1年もほぼ半分が過ぎることになる

 きょうは各地でほぼ晴れマークが並ぶ。近畿以西は梅雨の晴れ間、東日本は入梅前のありがたい青空になりそうだ。このさき暴れず、荒れず、田畑を潤す恵みの雨期であってほしい。