時枝学説、句構成

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言語過程説は仮説である。時枝文法はその仮説に成り立つ実証である。時枝誠記の学説成立には、言語構成観に対する批判に拠るところが大きく、当時の構造言語学を時枝は縷々、物質観で述べている。その対象となったのはソシュールであるとみてよいが、それでは時枝は仮説をどのように立てたろうか。時枝の言語構成観に拠って言語本質観を唱えたので、やはり理論の展開に従って言語の現象を追うことになる。これは時枝学説に触れてもそこまでを仮設の信奉をするというのはたいへんで、橋本文法を批判した時枝文法の話しということで、時枝の理論をまともにする人は少ない。熱心なものは哲学者、文芸評論家に見えるのは、よくしられている。言語主体には、主体と客体の区別による、現象に対する哲学をもって継承する。理論学説に、その学派には学校教育関係の文法をさらに文章にして業績を上げる方々がいて、それはそうそうたるものであるが、果たしてそれも時枝自身が残した文章論研究の発展で、文法解釈において顕著であると言えるが、仮設の踏襲というべきか、その実証においてはどうだろう。一語を取り出し、一語文を規定する、それを文章だというところまで、時枝は独特の現象の言語場面をとらえる。また学校教育にも時枝は積極的に発言をした。言語の4技能はいまも国語の教育のかなめである。それは言語生活の概念を打ちだしたことにも表れている。ソシュールのランガージュをはるかに見据えるのはわたしの思い過ごしか、それでも言語活動と言語生活の違いを説明するのは困難なことである。学校教育について発言したのは時枝の著作にまとめたものがあって、帝国大学を辞してからのいわば在野の活動にある。時枝の言語解釈には日本語を包含してみる古文、古典語からの現象が大前提にあったから、それもまた、教育には応用する難しさがあった。
さてここまで述べてきても、時枝学説にある句にふれてもいない。それほどに、その全体には足跡が大きい。それで、時枝の原論に始まるか、国語学史の記述に嵌まるか、はたまた、日本文法文語篇、口語篇で国語を見ようとするか、それは興味深いものである。
だが、ここで、聞いてみよう。辞が詞を包み込むとはどういうことか。詞から分出する辞である。その辞がイメージとしてあるか。まず、「桜の花」を発言して、桜分出のが包み込みそれを花がくっつくような形で桜の対等に花という句の単位としたらを桜の花句に成立させて分出するとそれを包み込むようにして、[((((さくら)の)はな)が)(さく)よ)] これに客体表現と主体表現があって、主体が客体を取り込む日本語というのが言語過程になるとすると、句の包摂は言語を発する主体と客体の相互にどのような現象を表しているだろう。
 というふうに「が」があるという説明ができるだろうか。サクラは「の」に包まれていて、句構成として、時枝理論の解説となる初歩を問うようなことになり、そこには1次過程、2次過程と概念を経るか、経ないかの基本的なことが説明に必要なのであるから、その心的過程をまともにしてみてはいかがか。