総主、大主

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論理のことになる。どんな論理かというと、絶対とは一つしかないという。主語の絶対とは、一つの主語を持つというだけのことであって、絶対的存在ということではない。
相対はまた違って、絶対に対する相対となるが、相対しあうということ、向き合うだけのこと、あちこちが相対同士となると、そうなると本当に、唯一絶対とか何とかを考える論理には、許せない、ありえないことになってくる。

大主語と小主語と、複文構造を説明して用いられた用語に過ぎないと言ってもいい、にもかかわらず、国語の研究でも、わかっていたことだから、主文の主語とか、従属文の主語とか、普通に言えばよかったろうに、二重主語とか、二重判断とか言っているのは、国語の構文のことである。

困ったことにその分析は進まなかった、それは時代のなせる業かもしれない、それどころではなかった社会情勢があった。
そのうちで連文節を文節相当にして、連文節の連鎖を係り受けとだけとらえようとした教科の国文法だったから、そのときに唱えられた連詞、ダンクはもっと分かりにくいし、包摂するところの言語過程では、ちんぷんかんぷんになってしまう、というような想像ができる。

1930年代から50年代の文部省の規範文法には係官になると限界があった、とか、勝手に想像してしまう。
それでも、時枝文法による国文法教科書も実際に学校配布用に作られた工夫があったようで、中部地方の採用にあったのかどうだったか。

さて、主語は絶対とそう思う人にしかわからないことになるので、もう少しわかりよくすると、論理に、二重主語は許容できないのであるというだけで、宗主でもあったかどうかだけれど信仰は良しとして、総じて主語となるは述語に対して一つとは知るところ、その論理だけである。
その傳で、くどいようだが、総主も大主も許せなかったのだろうから、漢語における二重主語の構造などをも知っていたのかもしれない。
古典語でも別に主語なんぞは言わなくてもよかった。
だから、省略というだけで、本来にはなかったということも知っていたかもしれない、かのひとは。

となると、文には主語と述語の必須要素の文法に対して、 必須でないから主語廃止という言い方は、もとより必須の成分とは説明しない文法に対して、論理を一方的に正しいとするような、主語抹殺論はどの言語現象について論を展開したのか、主格の優位は認めたにかかわらず、係り受けの同位的扱いで論理を立てている、国語ならば誰もが容認していることで、というのは、その根拠がどうか、前提となる必須の要素かどうかに対して言えば、もともと必須の成分として説明していないのだから、英語はそう、文の必須要素だけれどと思うにすぎないので、日本語にも主語があってもいいよ、もともと薄弱であると考えてよいだろう。