日本語の形成
日本語の起源、日本語の成立、日本語の形成と思い合わせるなら、その起源は歴史以前であり、成立は歴史とともにあり、形成は歴史そのものである。歴史を学ぶとき、それは言葉を記録したものとして、文字そのものの使用を見る。その文字による文書であるかないか、歴史を見ることはその行為に、経緯をたどる。
日本語が成立し、日本語の文字使用が漢字から仮名を用いることへの展開は劇的な様相がある。日本語を漢語漢文に併記して用いた文字記録にその表れがある。漢文訓読文をそのままに思えば、漢語漢文に日本語を加えた記録であるが、それは記号によるものであるから、読み点また訓点とした日本語の読み方を示すことによって、日本語が形成されたと見える。
しかし、それは日本語を読む行為として、漢文を読むことで訓読という日本語を形成していた。その経典にはいわば、音としての伝統ができたのである。それは文字記録として漢字と仮名の文章が生まれる。漢字仮名交じりの文章は日本文学のジャンルで説話集に現れる。日本霊異記、三宝絵詞を経て、今昔物語にその変化をたどることができる。
時代にはその書誌を明らかにしなければならない。日本国現報善悪霊異記は序と本文の記述から、弘仁13年、822年ごろに書かれている。3巻をもって構成された。上巻に35話、中巻に42話、下巻に39話で、合わせて、話数の記録とその数え方によるが、およそ116話をかぞえる。その上巻の写本と中下巻の写本に書写の形態に差があり、その訓注を見ると日本語表記の特徴を持つ。
興福寺本は上巻で、最古の書写年代は904年を記録している。
来迎院は中下巻で、平安時代後期になる写本で、現存最古本である。
そして、真福寺本、大須観音宝生院蔵の中下巻は興福寺本の上巻に合わせて、文学資料の底本となっている。
201306 再録
>日本語の形成はこのころかと古事記撰述の時期を考えてみた。
歴史が文書による記録を証拠とする限り、歴史事実はその記録からほかにあらわれ出ない。
最古の木簡による戸籍が福岡県太宰府市の遺跡から発見されて、それまでの正倉院に伝わるものをさかのぼり、7世紀末のものとみらている。
出土した木簡は、701年に、評が郡に変更された、685年に、進大弐の冠位使用が始まったなどを理由に、大宰府市は685~701年の作成とみている、ニュースは伝える。
戸籍は670年の庚午年籍、続いて飛鳥浄御原令に従って690年に庚寅年籍が作られたが、それはいずれも実物を残していない。
伝える写真では、国分松本遺跡で見つかった、行政単位の「嶋評」から始まる戸籍の内容を記した日本最古の木簡の表(右)と「進大弐」などと記された裏の赤外線写真(福岡県太宰府市教育委員会提供)、と載せていて、そこに明らかになるのは行政による文字記録である。
古事記編纂のあとに39年をかけた日本書記が720年に作られたのでその時期を681年に見ても、7世紀の後半あたりから文書記録が行われた。
http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y14/y14/index.html
奈良地域関連資料画像データベース 興福寺トップページ
興福寺本 『日本霊異記』
>
『日本霊異記』(上巻)巻子装一巻 29.6cm×870.0cm
日本最古とされる説話集。正式名を『日本国現報善悪霊異記』といい、九世紀初め弘仁年間(810-24)の成立。著者は、在家私度出身と考えられる薬師寺僧の景戒。上中下三巻、計116話を収める。興福寺本は大正11年(1922)に、東金堂の「塵埃の裡」から発見されたという。上巻のみの伝存ながら、文中に延喜4年(904)の原本書写年次を有し、最古の写本として国宝指定を受けている。これまでは、昭和9年(1934)に便利堂からコロタイプ印刷の形で発行された影印版によるしかなく、影印本自体が稀覯本となっていた。
第19話における裏面の書き込みの混入から見て、本来は現在紙背とされている『衆経要集金蔵論』こそが最初に書かれ、その紙背に『日本霊異記』が書かれたらしい。いつのころか『日本霊異記』が表面となって巻き返され、巻頭部はかなり痛んでおり、また第30話には貼り紙修理をしてその上から文字を書き込んだ例もあって、『日本霊異記』がよく読まれたことが知られる。
『日本霊異記』は日本の、『金蔵論』は天竺の因果応報を説く点で共通し、両者の説話題目が共に「~縁」という形を取るなど、この二書が表裏に書写されたことは、たんなる偶然とは考えがたい。
http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y14/y14/limes/nihonryoiki_01.html
『衆経要集金蔵論』(紙背・巻6・部分)
中国の北朝末期(6世紀前半)に、釈道紀が、仏典にみられる説話をテーマごとに集成したもの。完本(全7巻あるいは全9巻とも)は伝わらないが、この興福寺本(巻6)と、大谷大学博物館蔵法隆寺旧蔵本(巻1・2)によって、その面影をうかがうことができる。また近年、敦煌写経中にも『金蔵論』の古写本(巻5・6)が確認され、注目されている。
収められている説話には、現在の果(結果)に対して、過去の因(原因)が語られるという形式のものが多い。興福寺本の冒頭話では、生まれたときから頭上が摩尼珠(宝石)の天蓋に覆われていた人物が語られ、それが過去に摩尼珠で天蓋を作り仏塔を覆った功徳によることが明らかにされている。こうした説話によって、善因善果・悪因悪果という因果応報の理を平易に説き、人々を仏道に導くことに、編纂の意図があったと考えられる。
昭和9年の『日本霊異記』影印版では、巻頭と末尾の計2カットだけが付録の形で収められていた。
日本語が成立し、日本語の文字使用が漢字から仮名を用いることへの展開は劇的な様相がある。日本語を漢語漢文に併記して用いた文字記録にその表れがある。漢文訓読文をそのままに思えば、漢語漢文に日本語を加えた記録であるが、それは記号によるものであるから、読み点また訓点とした日本語の読み方を示すことによって、日本語が形成されたと見える。
しかし、それは日本語を読む行為として、漢文を読むことで訓読という日本語を形成していた。その経典にはいわば、音としての伝統ができたのである。それは文字記録として漢字と仮名の文章が生まれる。漢字仮名交じりの文章は日本文学のジャンルで説話集に現れる。日本霊異記、三宝絵詞を経て、今昔物語にその変化をたどることができる。
時代にはその書誌を明らかにしなければならない。日本国現報善悪霊異記は序と本文の記述から、弘仁13年、822年ごろに書かれている。3巻をもって構成された。上巻に35話、中巻に42話、下巻に39話で、合わせて、話数の記録とその数え方によるが、およそ116話をかぞえる。その上巻の写本と中下巻の写本に書写の形態に差があり、その訓注を見ると日本語表記の特徴を持つ。
興福寺本は上巻で、最古の書写年代は904年を記録している。
来迎院は中下巻で、平安時代後期になる写本で、現存最古本である。
そして、真福寺本、大須観音宝生院蔵の中下巻は興福寺本の上巻に合わせて、文学資料の底本となっている。
201306 再録
>日本語の形成はこのころかと古事記撰述の時期を考えてみた。
歴史が文書による記録を証拠とする限り、歴史事実はその記録からほかにあらわれ出ない。
最古の木簡による戸籍が福岡県太宰府市の遺跡から発見されて、それまでの正倉院に伝わるものをさかのぼり、7世紀末のものとみらている。
出土した木簡は、701年に、評が郡に変更された、685年に、進大弐の冠位使用が始まったなどを理由に、大宰府市は685~701年の作成とみている、ニュースは伝える。
戸籍は670年の庚午年籍、続いて飛鳥浄御原令に従って690年に庚寅年籍が作られたが、それはいずれも実物を残していない。
伝える写真では、国分松本遺跡で見つかった、行政単位の「嶋評」から始まる戸籍の内容を記した日本最古の木簡の表(右)と「進大弐」などと記された裏の赤外線写真(福岡県太宰府市教育委員会提供)、と載せていて、そこに明らかになるのは行政による文字記録である。
古事記編纂のあとに39年をかけた日本書記が720年に作られたのでその時期を681年に見ても、7世紀の後半あたりから文書記録が行われた。
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興福寺本 『日本霊異記』
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『日本霊異記』(上巻)巻子装一巻 29.6cm×870.0cm
日本最古とされる説話集。正式名を『日本国現報善悪霊異記』といい、九世紀初め弘仁年間(810-24)の成立。著者は、在家私度出身と考えられる薬師寺僧の景戒。上中下三巻、計116話を収める。興福寺本は大正11年(1922)に、東金堂の「塵埃の裡」から発見されたという。上巻のみの伝存ながら、文中に延喜4年(904)の原本書写年次を有し、最古の写本として国宝指定を受けている。これまでは、昭和9年(1934)に便利堂からコロタイプ印刷の形で発行された影印版によるしかなく、影印本自体が稀覯本となっていた。
第19話における裏面の書き込みの混入から見て、本来は現在紙背とされている『衆経要集金蔵論』こそが最初に書かれ、その紙背に『日本霊異記』が書かれたらしい。いつのころか『日本霊異記』が表面となって巻き返され、巻頭部はかなり痛んでおり、また第30話には貼り紙修理をしてその上から文字を書き込んだ例もあって、『日本霊異記』がよく読まれたことが知られる。
『日本霊異記』は日本の、『金蔵論』は天竺の因果応報を説く点で共通し、両者の説話題目が共に「~縁」という形を取るなど、この二書が表裏に書写されたことは、たんなる偶然とは考えがたい。
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『衆経要集金蔵論』(紙背・巻6・部分)
中国の北朝末期(6世紀前半)に、釈道紀が、仏典にみられる説話をテーマごとに集成したもの。完本(全7巻あるいは全9巻とも)は伝わらないが、この興福寺本(巻6)と、大谷大学博物館蔵法隆寺旧蔵本(巻1・2)によって、その面影をうかがうことができる。また近年、敦煌写経中にも『金蔵論』の古写本(巻5・6)が確認され、注目されている。
収められている説話には、現在の果(結果)に対して、過去の因(原因)が語られるという形式のものが多い。興福寺本の冒頭話では、生まれたときから頭上が摩尼珠(宝石)の天蓋に覆われていた人物が語られ、それが過去に摩尼珠で天蓋を作り仏塔を覆った功徳によることが明らかにされている。こうした説話によって、善因善果・悪因悪果という因果応報の理を平易に説き、人々を仏道に導くことに、編纂の意図があったと考えられる。
昭和9年の『日本霊異記』影印版では、巻頭と末尾の計2カットだけが付録の形で収められていた。
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