むなし 思い出を綴る
むなしき
生きていくには欲がいると気づいた。手術を受けて回復を図るときの思いだ。これは人生で2度目だから、よくよく救われない、いや二度も生き返った思いか。18のときと47年を経てのいま、いずれも、15から50年を数えることになる。体を慣らしてふと、気づくのである。欲という字義は、字通によれば、声符は谷、よう、谷に容よう、浴よく、裕ゆう の声があり、容は神容、浴・欲はその神容に接する法をいう、と解説し、これまで知っていた、谷を空虚、欠けん は口を開いて欲する意であるとするが、そのような造字の法はない、と説明している。明解だ。彷彿として神容のあらわれる意、その神容を拝するを願うを欲、その神容に接するを裕という、と解説する。この字義を知って、またそうであったかと思うことしきりだ。なんとなれば、白川静漢字学で、欲は、神につかえる態度をいう語である、人の欲望には慾という、とあるからである。
どんな欲か。それは前に進もうという気持ちのあらわれだ。そのために歩みを進めようとする前の準備があるわけだ。そのときに祈る自分がいる。47年前は、大地にぬくもりを感じ、風の爽やかさに、身をすくめて願うのであった。2年前のリハビリもそうして始まった。集中治療室から出てきて、動けなくなった体を横たえながら、どう動こうかと思いを凝らしていた。身体から管が3本も出ているので、動くに動きようがなかった。電動ベッドの背もたれにするまでの痛みは、そうしてもしなくても、難渋だった。苦渋だった。肺から一本、尿のために、また痛み止めの点滴と、1週間を過ごしたのは、どうしていたろうかと思い出しても・・・
仏教が明らかにした欲望、欲心、欲情といったような語で表す。仏教では、眼耳鼻舌身意、げん に び ぜつ しん い の六根から欲を生じて、三界、無色界色界欲界といい、このようなさまざまな欲を持っている者が住む世界として欲界があり、現実世界の人間や天部の一部の神々などがこの欲界に含まれる存在であるとするようだが、煩悩即菩提と考える大乗仏教では、欲も修行のためになる。
2011年9月17日 土曜日 6日目
夜が明けた。
6時までは消灯の時間だ。
フロアをふたまわりして、体を動かしてみる。
よく眠った
4時48分に時刻を確かめたから、昨夜の10時半過ぎからすると、6時間は眠った。
痛いので目が覚めるのは、ご免だとばかりに、昨夜は座薬を使ったから、効果はたちどころに顕れた。ベッドに埋まってしまったかのように、すべてがぐったりとして、手足を動かすのも、こんなに体が重いのか思うばかりに感じる。
痛いのは嫌だから、痛くないようにしているが、痛みをコントロールするとあるのはどうすることか。眠れないのは、眠らないのは、よくないから、少しでもぐっすり休むがいいに違いない。
一昨夜は激痛で二度も目が覚めて、痛み止めが利かなくなったかと、覚悟して明け方の時間までを汗だくになってこらえていた。切ったところが痛み始めたので、それまでとちがって、右脇下と右胸の中で、外から中からと責めたてるようでどうにもならない。
あれからどれくらい経ったのかと、日常記憶の意識が目覚め始める。
きのうはどうだったか、めがさめたときはどうだったかっと、近いところは日常の座ガを送ることが第一で、右脇のチューブがとれた所までは、あるいは点滴の管がとれるまでは動きもままならない、それが後は背中の管だけになった。この管がとれて自力回復の本格だ。
まず、麻酔から目覚めたのは、集中治療室であった。
集中治療室で時計を見たら1時半だった。麻酔から覚めるのに、2時間かかったことになるが、どこかその前に一度、医師から声を掛けられて、確定診断をつげられたような気がする。
どうも終わったようだとだんだんと目覚めてきて、看護師が何とか、体の向きを右に左にとしたいらしく、また、術後の浴衣を着せられたり、朦朧としていたが、面会に来た娘が涙で目を赤くして覗き込んでいるのが見えたので、手を伸ばして握ってやったら、強く握り返して泣き顔になった。
大手術だったのかと、あとできいたら、中ぐらいだとかいう、肺を6分の一も切除しているのに変わりなくふつうに息をしている。
集中治療室の面会は30分だとか何とか言い残して、家内と娘は帰って行った。身体からチューブが日2本、3本とついたまま、点滴の大きいほうは抜けて止血をするのに若い医師が力任せにしばって、何が自分に起こっているか、何をされたのか、わからぬままに眠り続けることになる。
また目覚めたのは、ベッドから見える時計を何度も確認しながら、電気が消えて夜が過ぎて、そう思いつしながらの明け方であった。それからレントゲンを撮ったり、身体を拭いたりの、6時間して、10時に9階の902号室にベッドを移してそのままに戻った。

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