令和の成人、おめでとう
R5年1月9日 月曜日 晴れ 13℃ 成人の日
1月の第2月曜日。1999年、平成11年までは1月15日というから、20年以上も前のことと、ハッピーマンデーは成人を迎えていたと、わけのわからない物言いはさて、18歳で成人となる法律でそのはじめての成人式が行われるようだが、全国の自治体の儀式で18歳を祝うのは3か所らしい、というニュースがあった。それもを日程ずらしているから、5月とかに行うようだ。受験期の成人式と入試が目前ではやりにくかろう。その一方でこの2年はコロナさわぎで式を行っていなかたということから2年遅れの22歳で成人祝いをするというのは、これはこれでなかったのだからよいことなんだろうけれど、大卒の就職期の年齢に合わせてのことというから22歳、20歳、18歳と青春の節目はそれぞれである。
思い起こせば55年、57年、59年前のこと、そのどれにも疾風怒濤の人生の選択があったので、つらいと言えばつらいことだった。18歳は体を壊しての病みあがり、20歳は進学断念、22歳はわが絶望からの再生であった。内なる軌跡には而立を得ての修行となった6年である。どん底を知るのは何があったのだろう、われとわが身には。自然法爾、歎異抄に救われた日々として記憶する。
親鸞聖人86歳、『自然法爾の事』という文章 1258年
末燈鈔(1333)五「自然法爾事。自然といふは、自はをのづからといふ、行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず」
親鸞聖人御消息
自然(じねん)といふは 「自」はおのづからといふ 行者のはからひにあらず 「然」といふは しからしむといふことばなり しからしむといふは 行者のはからいにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ
法爾といふは この如来の御ちかひなるがゆゑに しからしむるを法爾といふなり 法爾はこの御ちかひなりけるゆえに およそ行者のはからひのなきをもつて この法の徳のゆゑにしからしむといふなり すべて ひとのはじめてはからはざるなり このゆゑに 義なきを義としるべしとなり
自然といふは もとよりしからしむるといふことばなり 弥陀仏の御ちかひの もとより行者のはからひにあらずして 南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎えんと はからせたまひたるによりて 行者のよからんとも あしからんともおもはぬを 自然とは申すぞとききて候ふ
ちかひのやうは 無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり 無上仏と申すは かたちもなくまします かたちもましませぬゆゑに 自然とは申すなり かたちましますとしめすときには 無上涅槃とは申さず かたちもましまさぬやうをしらせんとて はじめて弥陀仏と申すとぞ ききならひて候ふ
弥陀仏は自然のやうをしらせん料(ため)なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰(あれこれ論議し、詮索すること。)すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。
正嘉二年 十二月十五日
愚禿親鸞八十六歳

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