ことば、文学、文字そして文法
日本語文法の始まりをかんがえると、なぜか、聖書の言葉だというコピーになる、はじめにことばありき、連想してしまうが、これに対比するのは、はじめにことばがあった、ことばは神と共にあり、ことばは神であった、という、ヨハネによる福音書、その神がまたなんだったのかと、その言いは、日本語の言葉とは神にかかわりがあるか、神を置き換えうるものかと、かたや宗教の、かたや文学の、文学ありきとして、日本語の、言葉は文字と共にあり、言葉は文学であった、文字であったとなるか。
《新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章から》創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった。言葉はすなわち神であり、この世界の根源として神が存在するという意。
日本語文法の説31 文法の論理①
2019-07-11 | 日本語文法
日本語に主語はない、日本語に主語がない、主語廃止論には、次のいずれを言うか。日本語に主語はないから、主語述語の文構造ではない、それでは、何があるか。この答えには、主語を第1等格と認めない、主語をnominative caseとしない、ということであって、主語を廃止するのはその機能にないということのようである。それでは、その格があるかどうかを言うには、主格とするものであるかを議論として進めなければならない。その考えを進めれば、主語述語を構造とする言語に対して、日本語は修飾語述語の構造か、修飾被修飾の関係で成り立つものとなる。というようなことになるかどうか、それを題述構造と説明するが、その文法機能の標示には、何が必須となるか。主語を必須としない文構造を認めることで、日本語にある文法論理はどう立てるか、数学者の命名はない。とまれ、その後の議論展開は、主語の用語を使わないことから、主語という用語を廃止することを叫び続け、主述関係という観念を捉えなおすのはよいとして、そこにあるのは題目と述語とは言語主体の論であるかどうか、また、分かりよい単文、重文、複文の区別になる主語の構文を日本語では、どうするか、など、論理の背景になる学説理論が見えない。
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