心なき声

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心の声を概念過程を経ないと時枝学説はとらえた。テニヲハに分類された言語、ゲンギョシシュの一つである。指すところある言葉と指すところなしとする分類は詞辞の分類に合わせてみると、品詞となる語の出入りがある。鈴木朗説を雅語音声考にもみて、三種ハ物事ヲサシアラハシテ詞トナリ、テニヲハゝ其詞ニツケル心ノ声也と述べていたのは、漢文訓読による辞、助字の範疇にあったとする議論は新たな知見である。
さて、その心の声に、心なき声があるというのはどういうことか。
引用する捉え方にあるように、
>時枝においては、語は「詞(客体的表現)」と「辞(主体的表現)」に二大別され、文とは「詞が辞を包み込むもの」とした 
(中国言語学における周縁からのアプローチ― 文化交渉学の一領域として ―内田慶市) 
と、いうような時枝理論の誤読によるものが、この論文は優れた見解を持つものであるから、この個所は誤読というよりは8)にあるように、さきには筆者の誤記に近いと思われるが、ことは、かように、時枝学説が発想を得ている背景に見直しが求められる。


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服は『活語断続譜』『言語四種論』『雅言音声考』『離屋学訓』. 『雅語訳解』(以下は『断続 ... 時枝の論説及び山口の指摘を見る限り、時枝以前の国語学史において、服の学説は不当な位置におかれていたように. 思われる。確かに活用研究 ...


http://www.icis.kansai-u.ac.jp/data/journal01-v1/journal01-07-uchida.pdf
> この鈴木朖の語の分類法は中国の虚実論を基盤としたものであり、これが最終的には時枝誠記の「詞辞論」に受け継がれていく。時枝においては、語は「詞(客体的表現)」と「辞(主体的表現)」に二大別され、文とは「詞が辞を包み込むもの」とした。従って、「主語」も「述語」も相対立する概念ではなく、実はいずれも「客体的表現」に過ぎず、それを包み込むものが「辞」つまり「主体的表現」であるとしたのである8)。この考えは「言語とは音楽や絵画などと同じく表現の一つで、対象-認識-表現という過程的構造をもつもの」であり、「言語とは人の主体的活動そのもの」とする言語観に基づくものであり、構造主義言語学などの、「構成主義言語観」やスターリンに代表される「言語道具説」などとは一線を画すものである。
> 8) 時枝は主語と述語の関係について次のように述べている。
「文に於いて表出されてゐる主語は、述語に対立したものとして表出されてゐるのでなく、述語の中に隠されて居つたもの、包まれて居つたものが外に表出される樣になつたものを解すべきである。」(同上書371p)
中国語においても、藤堂明保氏はかつて『中国文法の研究』(江南書院,1956)の中で、「中国語では、主語は述語に付随した成分と考えられるわけである。してみると、廣い意味で主語は述語を修飾しているものと言ってもよい」(139p)と述べたことがある。

世界大百科事典内の言語過程説の言及
【時枝誠記】より
…27年京城帝大助教授,33年教授にすすみ,43年橋本進吉の後任として東京大学教授となる。はじめ《国語学史》(1940)を発表してその記述態度・方法において学界の注目を集め,さらに第2次大戦中の《国語学原論》(1941)においてはみずから〈言語過程説〉と命名した言語本質観にもとづく国語学の体系を公表し,やがて戦後の学界に新しい刺激剤となった。近世国語学者鈴木朖(あきら)の説に傾倒し,それを敷衍して文法論の基礎に心的過程の差によって生ずる詞(し)・辞(じ)の区別を説くとともに,品詞論においてのみならず構文論にわたって,巧みな比喩を論理にちりばめながら新説を立てた。…