漱石の用字について
あらためて取りざたされるところを、夏目漱石の文字遣いについて、サイトのいくつかで知る。文献を書誌からの視点で厳しく扱うことは大切なことであるから、それはそうであるとして、興味深い。その一方で電子情報化された簡便さに弊が及ぶかの主張を見てしまった。まさに、憤懣をもってする意見には、むべなるかなと思い津、一方で、書誌から情報というところまで、現代的な様相を思ってしまう。通行本は活字における原本との原稿の隔たりは編集者によってきめられるところ、それを了解をしてのいわば流布本の形態である。文庫化されるときのその著作の運命みたいなものだろう。かたや電子情報の定本扱いは、かなり困難である。底本となるものが著作権による、そのかかわりで時代による文字の有無に始まって、それにルビを振るようなことがあれば、まさしく、校本であるかどうかの根本がとらえられる。たまたま、漱石の小説の愛好によってその意見を知ることになり、いちいち、ごもっともである。情報によってしからしめる、この電子媒体というものは、そこに書誌でいうところの本文批判は成立しない。
以下、読み方に注意を乞う。
http://www.geocities.jp/kiebine2002/
>具体的に漱石で青空文庫のおかしなところを言おう。
1,新潮文庫などもそうだが、会話文の初めを一マスあけていない。これはおかしい。最近そういう書き方がはやるのかもしれないが、会話というのは本来、一つの段落に相当するものだろう。だったら、一マスあけるべきで、全集ではそうなっている。青空文庫では底本で一マスあいているものまで、一律に一マスあけないようにしている。これがおかしい。底本に準拠といいながら、青空文庫のテキストになっている。別にそれで悪いというのではないが、底本に忠実などという宣伝はあきらかに虚偽だと思う。
2、青空文庫のおかしなものとしては、ケがある。これを底本の表記に関わりなく、すべてヶで統一している。これも会話文の一マスあけと同じことで、底本を著しく変えてしまっている。(2005.11.2)
3,文法的な知識がないために、単語認定が極めて不安定で、誤読が大量にある。こういう誤読だらけのテキストでは、とうていまともに読めない。そもそも文章を読む訓練を受けていない人が、こんな仕事をすること自体が噴飯ものである。文法を知らないと言うことでは、青空文庫の工作員に高柳なんとかという人物がいるが、畳字を「たたみじ」と読んでいる。馬鹿じゃないかといいたい。広辞苑か新明解でものぞいたらいいのに、そんな基本的なことすら出来ない。
これのいい例を「坊つちやん」からすこしだしてみよう。青空の底本はちくま文庫だそうだ。坊ちゃんにならってべらんめちょうでいく。
○双方合併《そうほうがっぺい》したのか→こんなふざけた言葉があるもんか。「そうほうがっぺい」たあなんのことだ。馬鹿にするな。
○剛情張《ごうじょうっぱ》りだと→これは筑摩が悪いんだろうが、岩波の全集では「ごうじょっぱり」とある。それが当然だ。ちくまなんてなんにもわかっていやしねえ。それをまにうける青空も馬鹿だよ。
○もう大概揃《たいがいそろ》って→これは一つ目と同じだが、なんちゅうふりがなだ。日本語ってものがわかってねえ。馬鹿野郎。
○どうかお着席をと云うから→これは岩波全集では「御着席」とある。だったら「ごちゃくせき」じゃねえか。ちくまなんて最低だぜ。それを真に受ける、青空も最低だ。
○向側《むかいがわ》に坐っていた→これは岩波では「むかふがは」とふりがながある。だったら「むこうがわ」じゃねえか。だいたい漱石が「むかいがわ」なんていうか。なんにもわかっていやしねえ。
○座敷の端《はし》の末座まで行って→岩波では「はじ」とある。おれは関西人だから「はじ」なんてよみは、恥ずかしくって口に出せねえが、漱石はそういってるんだからしかたがねえじゃねえか。勝手に原作をかえるなってんだ。そのほか「てにをは」を勝手に変えたところがいっぱいある。ちくまには出版社の良心ってえものがあるのか。
ちょっと10頁ほどみてもこのていたらくだ。これに類したことはあまりにも多すぎて、一々出せねえ。それにはっきりした誤植もかなりある。青空文庫なんて最低のテキストだ。そんなもの読んで読んだ気になる読者がかわいそうというもんだ。それから単語認定の出来ないところから来る「ふりがな間違いは」門田のお家芸かと思ったら、ほかのにもいっぱいある。実は青空文庫のお家芸だったんだ。最低だぜ。
○「坊つちやん」なんて何十年ぶりかで読んだが、実際漫画みたいな小説だ。そこで強く感じたことは、徹底的に悪役にされている、赤シャツが実に、青空の富田倫生にそっくりということだ。芝野は狸で、小林とかは野だだな。おれは坊つちやんというところだが(というよりうらなり君に近い)、もちろん喧嘩も暴力も嫌いで、そんなにかっこいいものではない。心意気だけ。
○それから小説とはいいながら、なんであんなに松山のことを、田舎田舎ってこきおろすんだろう。いやになってきた。だったら松山の向かいの広島も大田舎だ。それはともかく、そんなに漱石に馬鹿にされているのに、松山では坊つちやんを観光の売りにしている。今も、道後温泉駅の前では、坊つちやんの格好をした観光業者が、写真に収まったりしているだろう。ホテルではマドンナのような格好をした従業員がいるだろう。しかしマドンナなんて小説の中ではほとんど活動しない。ただうらなり君をこけにして、赤シャツに鞍替えしたおきゃんな女としてちょっと出るだけ。
○今、草枕が終わりそうなので、そこから、青空に蔓延している、誤読を指摘してみよう。
竹影《ちくえい》払階《かいをはらって》塵不動《ちりうごかず》と明らかに読まれる。
これは漢詩の一節である。ところが入力者はこれを散文のように読んでいる。漢詩の鑑賞というものが何もわかっていない。こういうものを見過ごしている青空の最終責任者も何もわかっていない。まったく最低だ。これは当然つぎのようになる。
竹影払階塵不動《ちくえいかいをはらってちりうごかず》と明らかに読まれる。
草枕にはしばしば漢詩が出る。ほかにもこういうのはたくさんある。おおかたみな間違っている。漱石だけではない。青空全体がこうなのだ。いかに青空というのが程度の低い、教養のない奴らの集まりかということがわかるだろう。こんな団体をれっきとした有名国立大学法人のしかも国語国文学科の教授が支持しているのだ。世も末だな。
○※[#「王へん+路」、第3水準1-88-29]
いうまでもなくこれは、青空の外字の注記である。なんでいちいちこんな長ったらしい注記が入るんだ。読書の興が殺がれることいちじるしい。第3水準であろうと、第2水準であろうと、全然関係ないじゃないか。読者はだいたいの字形がわかり漢和辞典で調べられるぐらいでいいのだ。いちいちJISにまで溯って調べる馬鹿がいるか。まったく必要性の感じられない注記だ。こういうのをひとりよがりの、潔癖性という。しょせんデジタルは紙の本と違って、そうとう原文の正確な再現をぎせいにしなくてはならんのだ。外字の注記だけうるさいまでに正確な再現を試みて何になるのだ。しかも正確と言ってもJISの本をみなければならんのだ。これはもうあの狸親父、芝野の欠陥商品的な、最低のJIS漢字字典の安っぽい宣伝としか思えないのだ。
私なら※[王+路]ですむ。あとは漢和辞典で調べればいいのだ。このての疑似潔癖は青空のいたるところにある。それでいて、傍点注記などは、先の漢詩と同じで、切るべきとろでないところで切ったりしているのだ。どう考えても馬鹿のやることだ。
以下、読み方に注意を乞う。
http://www.geocities.jp/kiebine2002/
>具体的に漱石で青空文庫のおかしなところを言おう。
1,新潮文庫などもそうだが、会話文の初めを一マスあけていない。これはおかしい。最近そういう書き方がはやるのかもしれないが、会話というのは本来、一つの段落に相当するものだろう。だったら、一マスあけるべきで、全集ではそうなっている。青空文庫では底本で一マスあいているものまで、一律に一マスあけないようにしている。これがおかしい。底本に準拠といいながら、青空文庫のテキストになっている。別にそれで悪いというのではないが、底本に忠実などという宣伝はあきらかに虚偽だと思う。
2、青空文庫のおかしなものとしては、ケがある。これを底本の表記に関わりなく、すべてヶで統一している。これも会話文の一マスあけと同じことで、底本を著しく変えてしまっている。(2005.11.2)
3,文法的な知識がないために、単語認定が極めて不安定で、誤読が大量にある。こういう誤読だらけのテキストでは、とうていまともに読めない。そもそも文章を読む訓練を受けていない人が、こんな仕事をすること自体が噴飯ものである。文法を知らないと言うことでは、青空文庫の工作員に高柳なんとかという人物がいるが、畳字を「たたみじ」と読んでいる。馬鹿じゃないかといいたい。広辞苑か新明解でものぞいたらいいのに、そんな基本的なことすら出来ない。
これのいい例を「坊つちやん」からすこしだしてみよう。青空の底本はちくま文庫だそうだ。坊ちゃんにならってべらんめちょうでいく。
○双方合併《そうほうがっぺい》したのか→こんなふざけた言葉があるもんか。「そうほうがっぺい」たあなんのことだ。馬鹿にするな。
○剛情張《ごうじょうっぱ》りだと→これは筑摩が悪いんだろうが、岩波の全集では「ごうじょっぱり」とある。それが当然だ。ちくまなんてなんにもわかっていやしねえ。それをまにうける青空も馬鹿だよ。
○もう大概揃《たいがいそろ》って→これは一つ目と同じだが、なんちゅうふりがなだ。日本語ってものがわかってねえ。馬鹿野郎。
○どうかお着席をと云うから→これは岩波全集では「御着席」とある。だったら「ごちゃくせき」じゃねえか。ちくまなんて最低だぜ。それを真に受ける、青空も最低だ。
○向側《むかいがわ》に坐っていた→これは岩波では「むかふがは」とふりがながある。だったら「むこうがわ」じゃねえか。だいたい漱石が「むかいがわ」なんていうか。なんにもわかっていやしねえ。
○座敷の端《はし》の末座まで行って→岩波では「はじ」とある。おれは関西人だから「はじ」なんてよみは、恥ずかしくって口に出せねえが、漱石はそういってるんだからしかたがねえじゃねえか。勝手に原作をかえるなってんだ。そのほか「てにをは」を勝手に変えたところがいっぱいある。ちくまには出版社の良心ってえものがあるのか。
ちょっと10頁ほどみてもこのていたらくだ。これに類したことはあまりにも多すぎて、一々出せねえ。それにはっきりした誤植もかなりある。青空文庫なんて最低のテキストだ。そんなもの読んで読んだ気になる読者がかわいそうというもんだ。それから単語認定の出来ないところから来る「ふりがな間違いは」門田のお家芸かと思ったら、ほかのにもいっぱいある。実は青空文庫のお家芸だったんだ。最低だぜ。
○「坊つちやん」なんて何十年ぶりかで読んだが、実際漫画みたいな小説だ。そこで強く感じたことは、徹底的に悪役にされている、赤シャツが実に、青空の富田倫生にそっくりということだ。芝野は狸で、小林とかは野だだな。おれは坊つちやんというところだが(というよりうらなり君に近い)、もちろん喧嘩も暴力も嫌いで、そんなにかっこいいものではない。心意気だけ。
○それから小説とはいいながら、なんであんなに松山のことを、田舎田舎ってこきおろすんだろう。いやになってきた。だったら松山の向かいの広島も大田舎だ。それはともかく、そんなに漱石に馬鹿にされているのに、松山では坊つちやんを観光の売りにしている。今も、道後温泉駅の前では、坊つちやんの格好をした観光業者が、写真に収まったりしているだろう。ホテルではマドンナのような格好をした従業員がいるだろう。しかしマドンナなんて小説の中ではほとんど活動しない。ただうらなり君をこけにして、赤シャツに鞍替えしたおきゃんな女としてちょっと出るだけ。
○今、草枕が終わりそうなので、そこから、青空に蔓延している、誤読を指摘してみよう。
竹影《ちくえい》払階《かいをはらって》塵不動《ちりうごかず》と明らかに読まれる。
これは漢詩の一節である。ところが入力者はこれを散文のように読んでいる。漢詩の鑑賞というものが何もわかっていない。こういうものを見過ごしている青空の最終責任者も何もわかっていない。まったく最低だ。これは当然つぎのようになる。
竹影払階塵不動《ちくえいかいをはらってちりうごかず》と明らかに読まれる。
草枕にはしばしば漢詩が出る。ほかにもこういうのはたくさんある。おおかたみな間違っている。漱石だけではない。青空全体がこうなのだ。いかに青空というのが程度の低い、教養のない奴らの集まりかということがわかるだろう。こんな団体をれっきとした有名国立大学法人のしかも国語国文学科の教授が支持しているのだ。世も末だな。
○※[#「王へん+路」、第3水準1-88-29]
いうまでもなくこれは、青空の外字の注記である。なんでいちいちこんな長ったらしい注記が入るんだ。読書の興が殺がれることいちじるしい。第3水準であろうと、第2水準であろうと、全然関係ないじゃないか。読者はだいたいの字形がわかり漢和辞典で調べられるぐらいでいいのだ。いちいちJISにまで溯って調べる馬鹿がいるか。まったく必要性の感じられない注記だ。こういうのをひとりよがりの、潔癖性という。しょせんデジタルは紙の本と違って、そうとう原文の正確な再現をぎせいにしなくてはならんのだ。外字の注記だけうるさいまでに正確な再現を試みて何になるのだ。しかも正確と言ってもJISの本をみなければならんのだ。これはもうあの狸親父、芝野の欠陥商品的な、最低のJIS漢字字典の安っぽい宣伝としか思えないのだ。
私なら※[王+路]ですむ。あとは漢和辞典で調べればいいのだ。このての疑似潔癖は青空のいたるところにある。それでいて、傍点注記などは、先の漢詩と同じで、切るべきとろでないところで切ったりしているのだ。どう考えても馬鹿のやることだ。
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